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ピエール=オーギュスト・ルノワール

印象派を代表するフランスの画家の一人、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841 – 1919)。パリの中流階級の都会的な楽しみ、余韻の余裕に溢れた人々を描いた。代表作は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」「舟遊びの人々の昼食」「ピアノに寄る少女たち」など。


幼少期 – 青年期

本格的な画家としての出発、印象派の誕生

ルノワールは、1841年にフランス中南部にある磁器の街として知られるリモージュで生まれました。父親は仕立て屋で、母親はお針子でした。1844年、ルノワールの一家はパリに移住しました。13歳の時に、磁器の絵付職人の見習いに工として入り、その腕前で周囲を驚かせていたようです。しかし、産業革命の影響で機械化が進み、手書きの職人が不要になったため、ルノワールも仕事を失いました。

20歳で画家になることを決意し、シャルル・グレールの画塾に入りました。ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合いました。1864年、23歳のときに、サロン・ド・パリに初入選し、その後も何度も入選の実績を残しています。同年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、「ロメーヌ・ラコー嬢」を制作しました。

ルノワールはシスレーの勧めで、画塾の仲間とフォンテンヌブローの森で写生をしました。これは伝統的でアカデミックな美術教育から逸脱した行為でした。従来のように過去の巨匠の作品を模倣するのではなく、自分の目で見た自然の風景や人を、見えるままに描こうとしていました。1866年に「アントニーおばさんの宿屋」を制作しました。

パリ郊外のラ・グルヌイエールで、友人のモネとキャンパスを並べて作品を描くようになりました。この頃に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しました。これが印象派の誕生を告げるできごとだったと言われています。

1868年のサロンには、「日傘をさすリーズ」、1869年のサロンには「夏・習作」、1870年のサロンには、リーズをモデルとした「浴女とグリフォンテリア」が入選しました。リーズはルノワールの当時の交際相手で、彼女をモデルに多く絵を描いています。

壮年期 – 中年期

印象派の時代から、古典主義の探求へ

1870年頃から、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が生まれました。1874年には「第1回印象派展」が開催され、画家30人が参加し、150点以上の作品が展示されました。ルノワールは、「踊り子」、「桟敷席」、「パリジェンヌ(青衣の女)」など7点を出品しました。古典的な表現への反発から始まった展覧会を、「未完成で、印象にすぎない」と酷評する美術誌もありました。画家たちは、これを逆手にとって自らを印象派と呼ぶようになりました。その後、7回に渡って展覧会は開催され「印象派」という絵画スタイルが定着しました。

第2回印象派展では、「習作(陽光の中の裸婦)」、第3回印象派展では「ムーラン・ド・ラ・ギャレッドの舞踏会」「ぶらんこ」などの作品が注目を集めました。

しかし、ルノワールは第4回、第5回の印象派展には参加しませんでした。サロン・ド・パリに作品を出品するためです。1879年のサロン・ド・パリに出品した「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」は大変な好評で、ルノワールは一躍、人気作家として知られるようになりました。

第7回印象派展で、ルノワールは再び風景画や風俗画を出品しました。しかし、大作の「舟遊びをする人々の昼食」はあまり評判ではありませんでした。テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写はいわゆる印象派らしい表現です。しかし、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、ルノワールの古典主義への関心を示しています。

犬を抱いている女性は、1890年にルノワールと結婚したシャリゴです。結婚後、ルノワールは妻や家族の日常を主題にした多くの絵画を制作しました。

高齢期 – 老年期

アングル風の脱却、苦闘の末の新しい表現

ルノワールは、1881年から1年をかけてアルジェリアとイタリアを旅行しました。地中海の明るい太陽とルネサンスの古典作品に触れたことが、印象主義の脱却のきっかけとなったと言われています。このアングル風の時代において、画面の構成的秩序を求めたルノワールの拠り所となったのが、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルでした。そしてこの時代の総決算が大水浴図でした。

1890年代初頭は、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描きました。はっきりした輪郭線のあるアングル風でもなく、印象派の時代とも違う新しい表現でした。1892年、美術局長官アンリ・ルージョンから、リュクサンブール美術館で展示すべき作品の制作依頼を受け、「ピアノに寄る少女たち」を製作しました。

この頃、ルノワールは関節リウマチを患いました。1907年には、地中海沿岸にある温暖な土地のカーニュ=シュル=メールに移りました。関節炎が悪化し筆を握る機会も減りましたが、残りの20年の人生をそこで過ごしました。