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クロード・モネ

愛と官能の画家。女性の身体をモチーフに、エロティシズムや死を表現した作品が多い。建築装飾の職人として成功し、画家に転身。平坦で装飾的なエジプト美術や、金・モザイクを用いたビザンディヌ美術、また日本の美術にも影響を受けた。ウィーン分離派の創設者でもある。


幼少期 – 青年期

画塾で修行し、アトリエ仲間をつくり、サロンへ出展

クロード・モネは、1840年パリのラフィット街に生まれました。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住しました。少年の頃から絵画が上手で、10代後半には自分で描いた人物のカリカチュアを販売していました。

1958年、18歳だったモネに転機が訪れました。モネの絵が、ル・アーヴルで活躍していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまったのです。二人はこの時から知り合い、その後、モネはブーダンから戸外での油絵制作を学びました。このことが、「光の画家」として知られるモネの生涯を決定づけたと言われています。

翌年の1959年、絵を本格的に学ぶためにパリに移動し、アカデミー・シュイスに入学しました。ここで、カミーユやピサロと知り合いました。アルジェリアでの兵役を経て、1862年にシャルル・グレールのアトリエに入り、シスレー、バジール、ルノワールらと知り合いました。

1865年のサロン・ド・パリに、海景画「オンフルールのセーヌ河口」と「干潮のエーヴ岬」を初出品し、2点が入選しました。翌年には、「緑衣の女」と「シャイイの道」が入選しました。「緑衣の女」は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユ・ドンシューがモデルでした。しかしこの後は、入選と落選を繰り返し、10年ほどは苦しい貧困の時代を過ごしていました。

壮年期 – 中年期

印象派主義の確立

モネは1871年から6年ほど、セーヌ川に面した街アルジャントゥイユのアトリエで画業に励みました。ここには、ルノワールやシスレーも頻繁に訪れていたようです。モネは、セーヌ河畔の風景を多く作品に残しました。

1870年代前半は、普仏戦争後の復興期で、一時的に好景気でした。この頃、近代画商の先駆者として知られているデュラン=リュエルがモネの作品を多数購入してくれたので、経済的な余裕が生まれました。

1869年と1870年のサロンに続けて落選したこともあって、モネはピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになりました。彼らが企画した最初の展覧会は、後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的な展覧会になりました。モネはこの展示会で、「印象・日の出」、「キャピュシーヌ大通り」を出展しました。

第2回印象派展は1876年4月に、デュラン=リュエル画廊で開催されました。モネは、着物を纏った妻カミーユを描いた「ラ・ジャポネーズ」を出品しました。この絵は、第2回展で好評を博しました。翌年の第3回印象派展では、「サン=ラザール駅」8点のほか、テュイルリー庭園、モンソー公園を描いた作品を出品しました。

経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、しばらくは食糧も暖房もない生活を強いられた。第二子を産んだあと、カミーユの体調は悪化していたこともあり、1879年、32歳で亡くなりました。モネは、この時、「死の床のカミーユ」を制作しています。

モネは、1880年のサロンに10年ぶりに出品しました。ルノワールが初めて高い評価されたことや、入選すれば画商が作品を購入してくれるかもしれないという期待があったからです。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた「ラヴァクール」が入選しました。

1880年代には、デュラン=リュエルの経済力も回復し、モネの絵を定期的に購入する契約が結ばれました。これにより、モネの経済的基盤は安定しました。

高齢期 – 老年期

ジヴェルニーの自宅にて

モネは、1883年にパリ郊外にあるジヴェルニーに移り、これ以降、1926年に没するまでこの地で制作を続けました。

モネは晩年にかけて、一つのテーマを天候や、季節、光線の異なる条件下で描く「連作」が中心になりました。同じモチーフで複数の絵を描く手法は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「名所江戸百景」などの浮世絵の影響を受けたと考えられています。

モネは、1890年にジヴェルニーの自宅に、「花の庭」や「水の庭」をつくり、それらをモチーフにした絵を大量に描きました。「睡蓮」第1連作では、太鼓橋を中心に、睡蓮の池と枝垂れ柳が、光の変化に従って描かれています。モネは、1926年に86歳で永眠しました。